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Y君がしんじゃった

3日前。
◯◯営業所のY君が、自宅で亡くなっていたという、とんでもないニュースが飛び込んできて、部内が異様な空気に包まれた。

警察から連絡があったというから、ちょっと普通のことではなさそうだ。

一人暮らしだったというY君の元へ、関東からご両親が向かわれたという。

私とY君は、3週間ほど前に催事の展示会場で一緒だった。社員が集まる勉強会や日常の電話連絡で何度も話はしていたが、長時間にわたって顔を合わせるのは初めてだった。


ふんわりパーマヘアにおしゃれなスーツ、おとなしい顔立ちのY君は、営業職としては内向的で、不思議な雰囲気を持つひとだった。

Y君が担当していた得意先のリストを見ると、沢山の店舗をまわっていたことがわかった。

なにがあったのかはわからない。
どんな状況で発見されたかもわからない。

私が知っているのは、あの日のことだけだ。



準備で製品のディスプレイをしていると、「僕こういうの好きなので、やらせてください」と器用に飾り付けをしてくれたこと。

センスあるね、と褒めると「上手くはないんですけど、こういう細かい作業が好きなんです」と言いながら、自分で施したというデコレーションが輝くスマホケースを見せてくれ、恥ずかしそうに笑っていたこと。
「こんなことができるなら、営業から部署異動したいな」と言っていたこと。

他社の担当者と仲良くなれたと思っていたのに、会場ではその人が「他の人とばかり話をして、僕を見てくれない」と拗ねていたこと。

「関西弁の女性は苦手なんですよね」と言いつつ、私に色々話をしてくれたこと。



展示ブースでの退屈な待ち時間を、腰が痛いだの脚が痛いだの愚痴を言い合いながら乗り越えた、あの日。

Y君が死んでしまわなければ細かいことなど忘れてしまったかもしれない、そんな何でもない一日だったのに。
突然いなくなったことによって、忘れてはいけない日になってしまった。



ご両親に渡すために、過去の催事の写真からY君の姿を拾い、クラウドに移していく。

そんなに深く関わっていたわけでなくても、人の死は重く、辛い。

あの日、Y君が写っていた写真はたった1枚だけで、顔はカメラと反対を向いており、表情はわからなかった。

あの日、彼は楽しかったのかな。


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親の願い

毎年毎年、親から届く年賀状には
「無理せんとボチボチやりや」と、父親の達筆すぎる字で、そう書いてある。

私は高校を卒業してから今まで、
大学こそ進学していないながら
自力でなんとか
恋愛も
仕事も
自由とか
友達とか
掴み取ってきたように感じていた

でも毎年毎年
「無理せんとボチボチ」という親からの言葉の前に
認めてもらえない自分をつきつけられてしまう

娘は
社会的な価値でなく
結婚して
子供を産んでこそ認められる
その呪縛からどうしても抜けられないのだ

仕事を認められることでなく
子供を産んで育て
旦那さんの世話をすることが
女の仕事

旦那の実家に行けば
「孫は…」という無言の圧力
親の願いは子供の結婚なんかではなく
そこからまだまだ先があるのだということを思い知らされる

どれだけ頑張っても
誰にも認めてもらえない

仕事をする女は孤独です



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27才

子供らしくない子供だった。
外の世界がぼんやりとしか見えなかったので、動くことに消極的だったために、自分の心の動きに集中していたせいかもしれない。

「いじめられるから嫌だ」と泣いて抵抗する私を、祖母や母は引き摺るようにして幼稚園へ連れて行った。小柄でやせっぽちな自分が大人に勝てるわけがないと諦めた頃、どうしたら幼稚園へ行きたくなるかを思案した。
「誰かを好きだと思い込もう。そしたら楽しくなるはずだ。」そう決めた私は、ある男の子を無理矢理好きだと思い込もうとした。その子はおとなしく、いじめられる私を助けてはくれなかったが、自分から他人をいじめることは決してしないような子だった。
「私はあの子が好き。だから顔を見るために幼稚園へ行こう」そう呪文のように唱えながら、なんとか自分を奮い立たせていた。
本当に好きになることはなかったが、殺伐とした日々をやり過ごすための自分なりの上手い対処法だと思っていた。
しかし大人になってからこの出来事を話すと、「そんな事を考える幼稚園児はいない」と言われた。

サンタクロースの存在など信じたこともないのに、「子供らしくしなきゃ」と、枕元の贈り物を持って「サンタさんが来たよ」と親に見せに行き、あまりの白々しさに「お父さん、お母さん、ありがとう」と言いなおしたこともある。



大人になるまでの長い間、自分の実年齢と中身が合っていない気がしていた。
身体に合っていない服を着ているかのような、そんな感じだ。
どうやったら、世間一般的な子供になれるのか、ずっと模索していたように思う。

そんな私が27才のある日「あ、今だ」と思った。
自分の心が、ちょうどいい外側に収まっている感じ。無理をせず、何をしても楽になった。
世の中に、そんな感覚を味わった人はいるだろうか。
大人になるのは素晴らしいと心の底から思った。

その後どうなったかというと…
当然のことながら外見がどんどん古びていき、中はそのまま、という状態である。


今でも時々思う。
27才とは自分にとって何だったのだろうと。


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自分の人生は自分一人では決められない

自分の人生だから自分が好きなように生きる
そんな言葉が当たり前のように響いている、現在…

私は自分の好きなようには生きられない

自分の人生は、身近な人たちの人生と何重にも重なっていて
その絡まりを解くことは不可能だと思う

自分の勝手で死ぬことなんてできない


私は自分の家族を自死で失い
17歳の頃の恋人を自死で失った

家族を失ったことは残された家族の人生に大きすぎる影響を与え
昔の恋人を失ったことは私の人生の一部を空っぽにした

自分の人生だからといって自分の好きになんてできない

そう考えてから私は、親が亡くなるまでは決して死なないように
毎日細心の注意を払って生きている

家族の自死で、私よりもずっと傷付いているであろう両親の人生を
これ以上台無しにすることは許されない

両親がこの世の中にいなくなったら
その次の日に死んでもいい
そう思って生きている

生きていくことはとても辛くて
ともすれば心が折れてしまいそうになるけれど

自死を選ぶことがないよう
必死で空を仰いで
今日一日をのりきろうと
そう思って生きている

自分の心の成長が止まったのは27歳で
それからずいぶん歳を重ねてきたけれど
私の心はまだ27歳のままで

若い頃に恋人に話していた
自分の人生を終えたい年齢に
あと一月で届いてしまうけれど

あと一日、あと一日と
薄い膜を重ねるように日々生きていく

自分の人生は自分だけのものじゃないから
どんなに苦しくても生きていく


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贅沢

いくつか転職をしたけれど、ふと気づけば今の会社に在籍している年数が一番長くなってしまった。
人生の半分以上を働いて過ごしてきたが、この会社にそんなに長くいるとは思わなかった。

この会社で定年まで勤めるのだろうか。
最近、そんなことを漠然と考えはじめた。

この会社は60才で定年、その後望めば嘱託として5年勤められる。
周囲には嘱託として会社に残る人が多くなってきた。
私がいる部署も5人のうち2人が嘱託だ。

しかし、嘱託の人達の意欲は、見ている限り極めて低い。
なんとなく「出勤して時間を潰していれば、お給料が貰える」と思っているようにしか見えず、後輩に仕事を引き継ぐとか、人を育成するとかいう意識は全く感じられない。
引き継ぐべき事を隠し、こちらがそれを見つけてもやり方を教えない。
暇そうなので仕事を依頼しても、全く成果は得られず、かえってフォローに時間が割かれるばかりだ。

そんな身勝手な人達に振り回され、日々神経をすり減らして仕事をしている。

60才になったら仕事を辞めて、もう嫌な人とはつきあわない生活を送りたい。
今まで人間関係で散々苦労をしてきたんだもの、それくらいの贅沢はしてみたい。
それに、「あの人、使えないのにいつまで会社に来るんだろう」と言われるのもいやだ。

やりたいことはいくらでもある。

ふたたびピアノやクラリネットの練習もしたいし、絵も描きたい。書道もしたい。糠漬けも漬けたい。ゆっくり読書もしたいし、花や野菜も育ててみたい。
もっとも、それくらいの年齢になると、親の介護をして会社を辞めても忙しいかもしれないが…
それに、そんな贅沢をするには相応の蓄えが必要だろうな。


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天職とは

随分前に、「天職ってあると思うか」と訊かれたことがある。

辞書をひくと
〔天から与えられた職務の意〕
①その人の性質・能力にふさわしい職業。

と書いてある。
ネットを見ると、「天職の見つけ方」や「天職を探そう」という言葉が出てくる。

私は「天職とは思い込み」と思っている。
もともと、その人の向き不向きはあったとしても、「天職」と思えるものに出会える確率は極めて低いと思った方がいい。
そんなちょっとやそっとで、天から与えられた職になんて巡り合う訳ない。
チェックシートをちょちょっと書いて、診断できるほど簡単なものじゃない。
探したって、すぐには出てこない。
天職か天職じゃないか、そんなことにこだわらずに、とりあえず目の前にあるものにガッツリ取り組んでみればいいと思うのだ。
自分が「これが天職」と思えるくらい、のめり込めて、それを仕事にできればラッキーだし、まあそこまでではなくても、それを「天職だ」と思い込もうとするのもいいと思う。

「夢は必ず叶う」という言葉が氾濫しているように思う。
必死に夢を探し、それに向かって努力し続けることは大切かもしれないが、「必ず叶う」わけはない。万人に奇跡は起こらない。
夢を持たないことが罪であるかのように必死に夢というわれるものを探し、疲れてしまうのなら、自分の器を知り、受け入れ、その中で日々努力することも必要だと思う。
家業を継ぎ、精進を重ね、そしてそれを「私はこれしかできませんから」と平然と言ってのける職人さん。小さな会社や工場、商店、現場で毎日懸命に仕事に取り組む作業員やパートさん。みんな痺れるくらい恰好良い。
私には、そんな普通のことが本当に素晴らしく思えるのだ。

地味な裏方であったとしても、自分の仕事に誇りを持って精を出す、それが「天職」に近づく道であるような気がする。


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泣く

幼稚園からヤマハ音楽教室へ行き、小学生からは両親に無理を言ってピアノを習わせてもらった。

このピアノの先生が、とんでもなく厳しかった。

週に一度、家の近くの坂道を登って先生の家へ通っていた。

個人レッスンなのだが、私が通う前後の時間には生徒さんがいなかったので、いつも先生の家は静まりかえっていた。
黄色に塗られた門を開けて、玄関の大きな引き戸を開けて「こんにちは」と挨拶をする。返事はない。
靴を脱いで揃え、そろそろと廊下を歩くとき、いつも自分の履いているジーンズの裾が擦れる音が響いた。

廊下を歩いてレッスンをする部屋に入る。
夏には扇風機がまわり、冬にはオイルヒーターがある大きな部屋に
アップライトピアノとグランドピアノが1台ずつ、それに大きなエレクトーンもあった。

静まり返った部屋の中、教則本をグランドピアノに置き、指の練習である「ハノン」から始める。たぶん、その音を先生は別室で聞いている。
自分の家にあるピアノとは違い、先生の家のグランドピアノは、恐ろしくキーが硬かった。指先に力を込めて弾いても、音がよく鳴らない。やせっぽちで非力な小学生にはとても辛かった。

「ハノン」の課題曲が一通り終わる頃に、先生が部屋に入って来る。
それまでの一連の流れも、慣れるまでには時間がかかった。
~挨拶しただけで、勝手に部屋に入ってもいいの?~
~勝手に練習を始めていいの?~
誰も教えてくれないので、最初はおそるおそる様子をみながら、自分なりのやり方で頭の中に手順書を作っていった。

先生はいつも大きな声で私を叱った。
「どうしてそんな弾き方をするの!」
「その指使い、間違ってるでしょ!」
…私は「もう一度、この小節から弾きなさい」というような具体的な指示が出ると思って待っているが、
先生はその後、一言も発せずに私を睨み続けている。
おずおずと、その前の小節から弾きだすと、
「そんなところから弾いちゃだめ!」
「弾き方が弱い!最初の音からしっかり弾きなさい!」と、また叱られる。

「だいたい、この曲は何調かわかってるの?!」と言われるので、消え入りそうな小さな声で「ホ…ホ短調です」と答えると、「ホ短調でしょ?!だったらホ短調らしく弾きなさいよ!」と叱られる。
…まだもっと叱られるかもしれないから待っていた方がいいのかな?と、じっとしていても沈黙の時間が流れるばかりで、先生は何の指示も出さない。私を睨んでいるだけだ。
部屋には扇風機の音と、蝉の声、そして外の道を通る車の音が響いているだけだった。
どうすればいいんだろう?どこから弾けばいいの?
子供の私には全然わからないので、暫く考えて、曲の最初から弾く。…叱られない。これが正解なのか?

レッスンの間中、私は先生との距離感をつかむのに必死だった。

やっとその日のレッスンが終わり、「また来週ね」と言われ、「ありがとうございました」と部屋を出る。
廊下をジーンズの擦れる音を聞きながら歩き、誰もいない玄関で再度「ありがとうございました」と頭を下げて外に出る。

その繰り返しで、楽しい思い出は何ひとつなかったのだが、私は両親に「ピアノを辞めたい」と言う勇気がなかった。我が家の経済状態には明らかに高額のピアノを、私のために買ってくれたのがわかっていたからである。

毎日、先生に叱られないように練習し、気乗りしないレッスンに毎週通った。それはまるで修行のようなものだった。唯一の救いは、母が「あんたのピアノの音は優しくて、澄んでいて大好きや」と言ってくれることだった。

夏休みになると、ごく稀に練習時間が変更になることがあった。
坂を上がって先生の家に向かうと、玄関に子供用の靴があり、私の前に他の生徒さんが練習に来ているのがわかった。しかし、ピアノの音はしない。
静かな廊下を通って練習室の扉を開けると、そこには私と同じくらいの年齢の女の子と先生がピアノの前に座っていた。 私は横のソファに座り、順番を待った。
静かだな…と思ったその時、私は気づいた。その女の子はピアノの前で泣いていたのだ。
きっと先生はいつものように叱ったんだろう…と思っってハッとした。「叱られて泣くんだ」と…。

その女の子は、一生懸命練習してきて、それでも叱られて悔しかったのか、それとも単に先生が怖かったのか、それはわからない。でも、私はいつも「どうすればこの状況から抜け出せるのか」と悩んではいたが、泣くという感情が動いたことはなかった。それだけに、そのことについて衝撃を受けた。

学校でいじめられる。
ピアノのレッスンが辛い。

自分の中では、この要素は「泣く」という感情には繋がらないものだった。
きっと多くは「困った、どうしよう」と対処法を考えるか、「腹立たしい」という感情に変換されているのだろうと思う。

その後も、年に何度か他の生徒が泣いている姿を目にすることがあった。
ピアノには中学を卒業するまでずっと通った。先生が私のことを「一度も泣かない可愛げのない子だ」と思っていたかどうかはわからない。でも、最後の何年かは、それほど酷く叱られることもなくなっていた。
もっと長くピアノを続けていれば、先生と仲良くなれたのだろうか。



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本当の顔は?

ブログのタイトル通り、うしろむきな暗い話題が続いているが、私は見た目「前向きで面白く、人見知りしない」という正反対な印象を人に与えているようだ。

実際のところ、一日のうちの殆どを私は前向きで面白い「外の顔」で過ごしているし、またそれが本当の顔のような気もしないではない。
夫が私と結婚した動機は「変わった人だから興味があるし、一緒に面白く暮らせそうだから」という、見たことのない生物の生態を観察したいというようなものだったらしい。
夫は自分の「普通すぎる性格と人生」にコンプレックスがあるという。

色々問題はあるかもしれなが、日々の暮らしに笑いは絶えない。会社での仕事は忙しいが何でも前向きに取り組み、残業から帰ると炊事や洗濯が待っている。会社からのメールも入る。疲れ果ててベッドに入れば次の瞬間に意識はなくなり、すぐに翌朝が来る。
結婚前、夫に「色々なことを考えていると、どんどん深いところへ行ってしまう」と言ったところ「忙しくしたら考えなくてすむよ」という答えをもらったが、その方法はなかなか上手くいっているということか。


私の育った家庭は、休日には必ずレコードやラジオが鳴っているような家だった。タンゴやマリアッチ、フォルクローレ、ロックにフォークにクラシックにジャズ、シャンソン、幅広いジャンルの音楽を聴いて育った。母は油絵、伯父は染色作家で一風変わった面白い人だった。父は落語も好きで、ユーモアのある人だった。
「明るく面白い」という要素は、自分の中にたくさん見つけることができるので、それが「外の顔」として出ている(出している)のは全くおかしなことではないと思う。

しかし、自分をくるりと裏返してみると人見知りはするし暗いし意固地だし、「内の顔」の割合も相当なものだ。「外」と「内」どっちが本当の顔なのか、「どっちも自分」と大らかに認めるには落差が大きすぎるような気がする。

それでも、幼い頃にはいつも「死んでしまいたい」と思っていたのが、そのうち「親より先には死ぬまい」になり、今は「夫にごはんを食べさせないといけないので何とか今日は死なずに帰りたい」になっているのは、成長しているのか、鈍くなっているのか、世界が狭くなっているのか、いったい何なのだろうか。


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罪悪感(子供について)

私たち夫婦には子供がいない。

夫に何か問題があるわけではない。問題ありありなのは、私の方だ。

子供が嫌いなわけではない。姉夫婦には二人の娘がいるが、特に上の子は私が実家にいるときに生まれ、毎日会社から帰宅するとずっと傍にいて面倒をみたり、遊んだりした。
驚くほど素直に育った彼女たちは、大きくなった今でも、とても愛おしい存在だ。
私が育った家庭に問題があったわけでもない。両親や祖父母からは惜しみない愛情を受け、優しく且つ厳しく育ててもらったと自信を持って言える。


「子供の目が悪かったらどうする?」

私の強度近視の要因は遺伝である。軸性近視といって、眼球が普通の人よりも長いことで、網膜の手前でピントが合ってしまうのだ。
目が悪いことで、いじめを受けたし、人間不信にもなった。
近所に住む同級生は、親の前では私と仲良く遊んだりするのに、学校に行くと悪口を私に聞こえるように大声で言うのだ。
「サキヲはなぁ、縄跳びがへたくそやし、こないだ家の横で必死に練習してたんやで。カッコ悪ぅ~。」
「サキヲはなぁ、音楽の時間イキッて(調子にのって・いばってという意味の関西弁)大きな声で歌うんや。ブスのくせに、うっとうしいねん!」

そもそも、生まれたときの体のつくりがどうなるかなんて全くの賭けみたいなものだが、もし強度近視で生まれてきた場合、自分の子供がいじめの対象になるか、そしてそれに耐えられるか、それもわからない。

そして、その自分の子供を取り囲む環境…学校であったり、保護者であったり…というものと、自分がうまく折り合いをつけていけるのか?
…本当に自信がないのだ。

自分のことなら我慢できても、子供がいじめられたとしたら、怒りに全く歯止めがきかなくなるか、自己嫌悪に陥って人格が破壊されてしまいそうだ。
子供は純粋だと言うが、私はその子供の残酷さを恐れている。



「その男性の子供を産むという絶対的で強固な関係が怖い」

本当にうまくは言えないので誤解を生むとは思うけれど…
その関係は一度成立してしまうと、もう投げ出すことはできないように感じる。そんな絶対的な関係が、親兄弟以外に存在することが何故か恐ろしいのだ。
私は人と密接な関係が築けないのかもしれない。

何の迷いもなく、愛する人の子供を宿し、育てる人って世の中にどれくらいいるのだろう。
女性は、この問題にどうやって対処しているのだろう。


年に何度か、妊娠する夢を見る。周りから「良かったなぁ」と言われ、焦っている自分の姿。
ああ、どうしよう、こんなはずじゃなかったのに…
目が覚めて「良かった」と胸をなでおろす反面、強烈な罪悪感に苛まれる。
子供を望まないのは、女性として、人間として、何か間違っているのでは…
若い時に卵巣を患ってはいるものの、望めば妊娠もできたかもしれないのに…

悩み、疲れている私に、夫は「子供がいなくても問題ないで。俺も子供が大好きな訳じゃないし」と慰めてくれる。
しかし、ああ、この人も他の人と結婚していれば、もっと普通の家庭を持てたはずなのに…とまた罪悪感に苛まれるのだ。



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一生わからんかもしれへんけど

自分の人生で大きな位置を占めている人からハガキが届いた。
新しくお店を出しますという案内だった。

彼とは同い年で18歳から6年間、とても仲良くしていた。
私は家庭がそれほど裕福でないこともあり、高校を卒業してすぐに就職した。
彼は一浪した後、それまでの志望とは全く違う私立の美術系の大学へ進学した。それは、私が今まで得意としていた分野であり、私が就職した職種も美術系だった。

彼と私は考え方も似ていたし、趣味も合った。
本当に優しい人で、大きな喧嘩をした記憶もない。
まだ携帯電話などない時代、電車が雪で遅れ、待ち合わせの改札で彼を3時間待ったこともあった。
彼は毎週末、バイクを長時間走らせて私に会いにきてくれた。
いつも特にどこに行くわけでもなく、お寺や河原で何時間も飽きることなく話をしていた。
彼の部屋で課題の作品を手伝ったり、美術館へ行って芸術論のような話もした。
CDを聴いてはアーティストの話をし、コンサートにも必ず一緒に行った。

お互いの家族とも仲良くなったし、このまま一生離れることはないと二人共が思っていた。

私は就職をした先で色々な仕事を任せられ、それに伴ってそれなりに辛い目にも遭っていた。
会う度に面白可笑しく職場での話を報告していたが、彼は夢いっぱいの大学生だったので、「これは言っても解ってもらえへんよな」と思うことも多かった。

同じ年齢であっても、大学生と社会人とでは差が出てくるものだ。大学での楽しい話を聞き、羨ましく思いながらも、彼が大学を卒業して就職すれば、社内での使えないおじさんや煩いお局さま、気の合わない人たちとの付き合い方や仕事の苦労など、愚痴を言い合ったりできるはずだ…そう信じていた。その時を待っていた。

彼が卒業したらきっとそのうち結婚するんだろうな…と考えつつ、その頃プロジェクトのリーダーを任せられていた私は、「女に何が出来る」という頭の固いおじさん達と日々戦い、心が徐々にすり減っていた。


彼がもうすぐ卒業するという頃、急に「大学院に行く」という話を彼の口から聞いた。
彼は柔和な雰囲気だが、意志は強く、自分の進路はいつも自分で決めた後で私に報告するような人だった。志望の大学を変えたときも、大学院へ行くことを決めたときも。
彼のことは常に応援していたが、どうも私は彼の隣ではなくて後ろで旗を振っていたように思った。
大学を出てもこの分野では自分の好きなことが出来ない、というようなことを言っていたが、その時私は頭の中で「仕事はそんなに甘いものじゃない」「結局現実から逃げたいの?」「私はあと何年待てばいいの?」と、そんなことばかりを考えていたように思う。日々「結果を残せ」という会社の中で生きている私には、彼が甘えているように感じたのだ。

それからほどなくして、私は彼に別れを告げた。
彼と同じような美術・芸術系の分野にいても、私は常に現実の中でもがいているサラリーマンであり、大学院に行ける彼の境遇に嫉妬しているかもしれないということを伝えたと思う。

とても辛かった。彼と別れることなど、それまで考えたこともなかったので、暫くはどうしたらよいのかが分からず、ただ茫然と日々を過ごした。
彼を忘れるために、傍に寄ってきた男性とつきあったこともある。すぐに結婚話がでたが受けられずに別れた。


何年かが経ち、どうしても会いたいという気持ちが抑えきれず、散々迷った挙句に彼に連絡をした。
すると彼は既に結婚をしていて子供もいた。
大学院を出て、目指す分野での大手の会社に就職し、結婚したと聞いた。
しかし、その会社を辞めて、彼がまた違う道を歩んでいたことに言いようのない衝撃を受けた。
その道を目指すために、海外に勉強に行き、他県の学校へも行っていると。
彼がどんな仕事を選ぼうと、今の自分には全く関係のないことなのだが、どう言えばいいのか…自分が長い間待たされた大学や大学院での経歴を彼があっさり捨てたことへの悔しさ?憤りのようなもの?そんなよくわからない感情が炎のように全身を包んで、部屋の中で身体を折り、声を上げて泣いた。
私の気持ちは無駄だったのか?生まれて初めて、叫ぶようにして泣いた。

どうしても諦めきれずに、無理を言って一度だけ、彼に会ってもらったことがある。
彼や彼の奥さんにはきっと迷惑をかけたことだろう。
私と彼が過ごした週末毎の時間をいくら繋いだとしても、その何倍もの時間を彼は奥さんと生きているのだから、彼はもう私の知っている彼ではないのだ、ということを自分に納得させるために、どうしても必要な工程だと思ったのだ。
行ったこともない県の知らない公園のベンチで、ちらちらとと時計を気にしている彼と何の深みもない話でほんの10分ほど言葉を繋ぎ、「奥さんが待っているから」と、あっさり彼は帰っていった。
彼はもう私を見てはいなかった。他人の夫であり、良きお父さんだった。初めて行った公園の白々しい風景の中に取り残され、私は空を見続けていた。


私はいくつか会社を変わったが、職種は相変わらず同じようなことをしている。強いこだわりはなかったが、どこの会社に行ってもデザインが出来るということを重宝がられ、自然と同じような仕事を任せられる。
そして仕事先で出会った年下の男性と結婚をした。私と同じく、それほど裕福ではない家庭で、仕事をかけもちして懸命に働く姿に惹かれた。子供はいない。二人で働いてやっと普通の暮らしができるくらいの収入しかない。忙しい毎日だが、不満ではない。

彼が他県から戻り、自分の工房を作って順調に仕事をしていることは、偶然ネットで知った。

彼の仕事は色々な人たちとの交流で育っていくのだろう。
私は会社という小さな世界の人たちと仕事上だけで繋がっている。私はとても明るく社交的に見えるようだが、とても暗い顔も持っている。特に今の会社には心を開ける人は殆どいない。でも…私には、きっと会社の中の小さい世界で収まるくらいの仕事が丁度いいのだろう。

夢を叶えられる人は、ほんのひとつまみしかいない。大抵の人は生活のために色々なことを諦めながら生きていく。自分の器を知り、その中で頑張ることも大切だと私は思っている。
彼は回り道をしたにせよ、好きなことを仕事にできて幸せそうに見える。それはとても良かったと、そう思ってはいるのだが…



世の中の常識でいえば、もう彼のことは良い思い出として残しておけ、というところに落ち着くのだろう。
いつまでもそんなことに縛られていたら前に進めない、と言われるだろう。
実際、彼のことを考えると、自分の嫌なところを目の前に突きつけられる気分になるし、自分の中の暗くて大きな穴を覗き込むことになる。
でもそれもいいと思うのだ。もう長く生きてきた。これからも涙を流しつつ、辛い思いをひきずりながらも生きていくだろう。
彼への複雑な思いは、自分でも解析できないかもしれない。彼との6年間を思うとき、今でもうずくまるほど苦しくなるのだ。


彼のお店が開店する日だ。
私が決して行くことのないその場所には、彼へのお祝いの言葉と多くの人の笑顔があふれ、華やかな空気が流れているだろう。
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